プラザ合意(大幅円高)
41年も為替に携わっていると、世界を震撼させるような事件に幾度も直面し、そして忘れもしない大相場を体験してきました。
ああ、あんなこともあったな、こんなこともあったと思い出します。
しかし、考えてみれば、読者の多くの方がその時の為替相場を経験されていないわけで、折角の私の体験を伝えなくてはと思い立ち、これから折に触れて、過去の大事件と相場がそれに対してどう反応したのかを取り上げていきたいと思っています。
「温故知新」(故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る)、過去の大相場を研究し、そこから今後起きるであろう大相場に対して備えることは、きっとお役に立つと思いますので、どうぞご参考にしてください。
今回は、プラザ合意について取り上げてみたいと思います。
【プラザ合意】
1985年9月22日(日)、米国の呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(先進5ヵ国、米・日・英・独・仏)による会合で決定した外国為替市場での協調介入を行う合意で各国の大蔵大臣・財務長官と中央銀行総裁が参加しました。
【背景】
1980年代初め米国はインフレの抑制のために、厳しい金融引締め策を取りました。金利が2桁台に達し、世界中の資金が米国に集中した結果、ドルは高めに推移することとなり、米国の輸出減少と輸入拡大をもたらしました。
高金利によって民間が投資を抑制したことが重なり需給バランスが改善し、インフレからの脱出に成功しましたが、結果的に、莫大な貿易赤字を抱え込むことになりました。
その後インフレ沈静化に伴って、金融緩和が進行し、景気回復で貿易赤字増大に拍車が掛かりました。
金利低下により貿易赤字が増大した米国の通貨ドルへの信認は薄れ、それに伴い、ドルは次第に不安定になっていきました。
1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れたG5により協調的なドル安を実施するために、このプラザ合意が交わされました。
【プラザ合意後のドル/円の動き】
実質的には、大幅な対米黒字であった日本が狙い撃ちとなり、G5によるドル売りの協調介入もあって、発表の翌日1日だけでも、ドル/円は、235円台から約20円下落し、2年後にはドルの価値はほぼ半減し120.00近辺となりました。
そして、プラザ合意以降現在までの月足チャートをご覧頂けますと、プラザ合意後の2年ほどの大急落によって、その後、80円幅ぐらいのレンジの中で、相場が上下しているのに過ぎないことがおわかり頂けます。
【体験談】
この時、私はロンドンにいて、為替スワップディーラーでした。
この週末前の金曜日に、ニューヨークのチーフディーラーからロンドンのチーフディーラーに電話があり、ある報道機関からの情報によると、週末に、円を標的とした為替調整の合意がなされそうだと伝えられ、ロンドンのチーフディーラーの顔は昂揚していました。
「(ドルを)売るしかないな。」とチーフはつぶやくと、仲介業者であるブローカーにプライスを聞き、次々に売っていきました。
因みに、この憶測は、週末前に、広く世界中に広まっており、決して私のいた銀行だけが知っていたわけではありませんでした。
そして、月曜日は、ドル/円が怒涛の急落となりました。また、意外と知られていませんが、日銀は円高を誘導するため、円金利を高めに誘導し、そのためドル/円のスワップは、ほとんどフラット(チャラ)になりました。
しかし、自国通貨高にするとはいえ、そこまでやるものかと思いましたが、為替スワップディーラーとしての私は、稼ぎどころとばかりに、夜中に東京とせっせとディールに明け暮れました。
【プラザ合意がディーラーに与えたもの】
このドル/円の大急落は、とりあえず1987年12月の120.00近辺まで続き、その後いったん160.00近辺まで戻した後、1995年4月19日に79.75の最安値を見るに到りました。
プラザ合意が1985年ですから約10年間、ドル安が是あるいは儲けの根源、円安は非あるいは損失の根源という思考パターンの中で人間が育つとどうなるかというと、もうドルを売ることしか出来ないカラダになっています。
その後の大きな意味での上げたり下げたりのレンジ相場の中で、売ることしか知らないディーラーの多くがマーケットから退場していくことになりました。
【教訓】
売りでも買いでも入れる、こだわりのなさが、相場の世界で長生きしていくコツ
長期を見て、今の自分の立っている位置関係を確認することが重要