私は、生まれが和歌山県の新宮市です。
新宮は紀伊半島の南の方で、熊野川が境界線となった三重県との県境の町でした。
両親は、静岡県静岡市の出身です。
父は、私と同じ上智大学出身ですが、卒業後就職した製紙会社の工場が新宮にあり、そこに赴任した地でした。
親父が、静岡で家庭教師をしていた中学性の姉が、私の母になった人で、ふたりは恋に落ちたそうです。
しかし、父の父、つまり私の祖父は、戦前静岡県内で長者番付で1位になったほどのお茶問屋でした。
しかし、茶を詰めた荷を積んだ貨車が丸ごと台風で水浸しになったり、茶の先物相場で大やられしたこと、そして戦後の混乱期が重なり、財産をすべて失ったという没落家系で、母の父から、ふたりの結婚は大反対されました。
そのため、駆け落ち同然で二人は、父の任地である新宮市にやってきたそうです。
私は、そんなことを、小さい頃から、よく母から聞かされながら育ちました。
そういうわけで、私の名前の紀行は、父方の祖父がよくありそうなことですが、珍しいところで生まれるとその地名を名前を取るということで、紀州の紀を取って紀行と名付けられたという実に単純な名前でした。
新宮には、小学校の4年生までいました。
家では、両親が静岡弁で話し、どちらかと言えば、私が関西弁で話すことあまり望んでいないようなものを子供心に感じ、家では標準語で話していました。
しかし、一歩外にでれば、和歌山弁の世界ですし、何より毎週日曜の昼は、吉本をテレビで観ることを楽しみにしていました。
そういう意味で、関西弁には、慣れ親しんだ幼年期から少年期でした。
高校生、大学生の頃は、父の学生時代のお友達が、天橋立のある京都府の宮津にお住まいでしたので、夏休みの時期など良く遊びにいきました。
そして、大学生4年の就職の時期です。
まったく銀行など就職先に考えていませんでしたが、唯一思ったことは、関西系の企業に入りたいと思ったことです。
その理由は、大学生らしい青い発想ではありましたが、関西系はバイタリティーがありそうだということと、あと本で読んだサントリーの創業者鳥井真治郎氏の「やってみなはれ」という言葉に大変共鳴を受けていたからです。
「やってみなはれ。やらなわからしまへんがな」
この言葉は、松下電器産業(現パナソニック)創業者・松下幸之助氏も感銘を受け、自らの行動指針されたと聞いています。
ということで、関西系企業に入りたいと思っていたところ、大阪本店の三和銀行に就職した大学のゼミとクラブと寮すべての2年先輩の方から、人数合わせで面接に来ないかとたまたま誘われてお伺いしたことがきっかけで、三和銀行に就職しました。
最初の支店は虎ノ門という支店で、ここではあまり感じませんでしたが、ふたつ目の支店となった銀座4丁目にあった銀座支店では、店内の公用語は関西弁でした。
ここで、私は、輸出入の仕事をしていて難を逃れましたが、隣の融資の主任が関西の人で、部下に対する番頭さんが丁稚どんにするような関西流のしごきは、東京にはないものがありました。
そして、そこから、ロンドン支店に転勤しました。
海外支店の大店は、ニューヨークとロンドンですが、三和の場合、棲み分けがなされていて、ニューヨークは東、ロンドンは西となっていて、ロンドン支店には、関西の大学出身者はもとより、関西の支店からの転勤者も多く、こちらも公用語は関西弁でした。
ですから、大阪本店の銀行の一番本流の雰囲気を支店内で味わうことができました。
ただし、私自身は、英語もできなければ、ディーリングのいろはも知らずに、ロンドン支店のディーリングルームに入りましたので、銀座支店で免れた関西流のしごきを高知出身の鬼軍曹から連日受けました。
しかし、その甲斐あって、半年という促成栽培で、ディーラーとして一人立ちし、今に至っています。
要は申し上げたいのは、私にとって、関西は私の大きな一部です。
ですから、大阪で関西の皆さまにお会いできることを、実に楽しみです。
そして、全国各地からも大阪にお出でいただけるようですので、是非大阪、そして関西の素晴らしさを味わって頂きたいと思っています。
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